海外のニュースで画期的な新薬が承認されたと聞き、「これで助かる命が増える」と期待したことはありませんか。
しかし、その薬がいつまで経っても日本の医療現場で使われない。
そんなケースが今、深刻な問題となっています。

「海外では標準的な治療薬なのに、日本ではそもそも開発すらされていない」

これは「ドラッグ・ロス」と呼ばれる現象です。
単に新薬の承認が遅れる「ドラッグ・ラグ」とは異なり、有望な治療の選択肢そのものが日本から失われてしまう、より深刻な事態を指します。

この記事では、ドラッグ・ロスの実態、その背景にある複雑な原因を多角的に分析し、解決に向けた最新の取り組みまでを詳しく解説します。
なぜ日本に新薬が届かないのか。
この問題は、特定の病気に苦しむ患者さんだけでなく、私たち国民一人ひとりの健康と未来に関わる重要なテーマです。

「ドラッグ・ロス」とは何か?

言葉の定義:新薬が日本に「届かない」問題

ドラッグ・ロスとは、海外(主にアメリカやヨーロッパ)で既に承認され、多くの患者さんの治療に使われている有効な医薬品が、日本では開発や承認申請すら行われていない状態を指します。

つまり、製薬企業が「日本の市場ではこの薬を販売しない」と判断し、開発を計画していないために、日本の患者さんはその薬の存在を知っていても使うことができないのです。
特に、がんや希少疾患など、代替治療が少ない領域でこの問題は深刻化しており、患者さんにとっては治療の選択肢が根本から断たれてしまうことを意味します。

「ドラッグ・ラグ」との決定的な違い

ドラッグ・ロスとしばしば混同される言葉に「ドラッグ・ラグ」があります。 この二つは似ているようで、問題の質が全く異なります。

項目ドラッグ・ラグ (Drug Lag)ドラッグ・ロス (Drug Loss)
状態海外で承認された薬が、時間を経て日本でも承認される海外で承認された薬が、日本では開発・申請すらされない
問題の本質時間差(タイムラグ)選択肢の喪失(ロス)
具体例アメリカで3年前に承認された薬が、ようやく日本でも使えるようになった。ヨーロッパで標準治療となっている薬が、日本では開発される予定がない。

ドラッグ・ラグは、日本の承認審査プロセスや治験体制の問題で、海外との間に数年の「時間差」が生じる問題です。 2000年代に大きな社会問題となり、国や製薬企業の努力によって審査期間の短縮などが進み、一時期は改善傾向にありました。

一方、ドラッグ・ロスは、そもそも日本市場への参入が見送られるため、「待っていればいつか使えるようになる」という希望すら持てない、より深刻な問題なのです。

ドラッグ・ロスの深刻な実態

ドラッグ・ロスは、単なる言葉上の問題ではありません。
日本の患者さんや医療現場に、具体的かつ深刻な影響を及ぼしています。

データで見る日本の現状:どれだけの薬が失われているのか

厚生労働省の研究班や日本製薬工業協会の調査によると、ドラッグ・ロスの実態が数字で明らかになっています。

2023年3月時点で、欧米では承認されているものの国内での開発が未着手の医薬品は86品目ありました。 これらのうち、日本にはその病気に対する既存薬がないケースも含まれており、問題の深刻さがうかがえます。

日本製薬工業協会の2023年11月の発表によると、2020年末時点で欧米で承認済みの薬のうち、日本で未承認のものは176品目にのぼります。 このうち、国内で開発すらされていない「ドラッグ・ロス」状態の薬は95品目あり、開発中で承認待ちの「ドラッグ・ラグ」状態(81品目)を上回っているのが現状です。

特に、抗がん剤、神経系用剤、全身性抗感染症薬といった領域でドラッグ・ロスが多いと報告されています。

患者への影響:治療の選択肢が奪われる現実

ドラッグ・ロスの最も大きな影響を受けるのは、言うまでもなく患者さんです。

  • 最適な治療が受けられない: 海外ではより効果が高く、副作用の少ない新薬が標準治療となっているにもかかわらず、日本では古い治療法しか選択できない場合があります。 これは、治療成績の低下やQOL(生活の質)の悪化に直結します。
  • 治療を諦めざるを得ない: 特に希少疾患や難治性がんの患者さんにとって、新薬は最後の希望となることがあります。その薬が日本で使えないと知った時の絶望感は計り知れません。
  • 情報格差による混乱: インターネットを通じて海外の最新治療情報を得た患者さんやその家族が、主治医に相談しても「日本では使えません」と告げられ、混乱や不信感を抱くケースも少なくありません。

ある患者団体の調査では、ドラッグ・ロスという言葉を知っている患者さんや家族は多く、特に子供の希少疾患の治療薬が国内で使えないといった切実な声が寄せられています。

医療現場への影響:標準治療が行えないジレンマ

ドラッグ・ロスは、医療を提供する側の医師たちにも大きな困難をもたらします。

  • 治療方針の制約: 医師は、国際的な診療ガイドラインで推奨されている最新の治療法を、日本の患者さんに提供できないというジレンマに直面します。
  • エビデンス構築の遅れ: 新しい薬が使えないため、その薬に関する臨床データや治療経験(エビデンス)が日本国内で蓄積されず、結果的に日本の医療全体の進歩が遅れる可能性があります。
  • 患者への説明責任: 最善の治療を提供できない理由を患者さんに説明することは、医師にとって精神的な負担となります。

このように、ドラッグ・ロスは患者さんの命や健康に直接関わるだけでなく、日本の医療水準そのものを相対的に低下させかねない、危機的な状況なのです。

なぜ日本でドラッグ・ロスが起きるのか?5つの複合的要因

「日本は経済大国で医療レベルも高いはずなのに、なぜ新薬が届かないのか?」
多くの人が抱くこの疑問の答えは、一つではありません。
日本の市場、制度、そして世界の医薬品開発環境の変化など、複数の要因が複雑に絡み合ってドラッグ・ロスを引き起こしています。

要因1:日本の医薬品市場の魅力低下

製薬企業にとって、新薬をどの国で販売するかは重要な経営判断です。
その判断基準となるのが「市場の魅力」ですが、残念ながら日本の市場は世界的に見て魅力が低下していると指摘されています。

  • 成長率の鈍化: 世界の医薬品市場が成長を続ける一方で、日本の市場規模はほぼ横ばい、あるいは微減傾向にあります。 IQVIAの予測では、2024年から2029年までの日本の医薬品市場の年平均成長率は1.4%にとどまり、欧米の3〜4%に比べて低い水準です。
  • 人口減少と少子高齢化: 将来的に市場の縮小が見込まれることも、海外企業が日本への投資をためらう一因となっています。
  • 相対的な地位の低下: かつてはアメリカに次ぐ世界第2位の市場でしたが、現在は中国に抜かれ3位となっています。 今後もその差は開くと予測されており、グローバルな開発戦略における日本の優先順位が下がりつつあります。

企業が限られた開発資源を投じる際、成長が見込め、より大きな利益が期待できる市場を優先するのは当然の経営判断であり、日本の魅力低下がドラッグ・ロスの根本的な原因の一つとなっています。

要因2:複雑で厳しい薬価制度

薬価、つまり国が定める公定薬価のあり方も、ドラッグ・ロスの大きな要因です。

  • 予測可能性の低さ: 日本の薬価制度は、2年に一度(近年は毎年)の改定で薬価が引き下げられるなど、企業にとって価格の予測が難しいという問題があります。 巨額の投資を行う新薬開発において、将来の収益予測が立てにくいことは大きなリスクとなります。
  • イノベーション評価の課題: 画期的な新薬の価値(イノベーション)が薬価に十分に反映されにくいという指摘もあります。 特に、製造原価を基に薬価を算定する「原価計算方式」では、開発にかかった莫大な研究開発費やリスクを評価しにくい構造になっています。
  • 厳しい引き下げルール: 売上が大きい薬剤の薬価を大幅に引き下げる「市場拡大再算定」などのルールも、企業の開発意欲を削ぐ一因とされています。

こうした薬価制度が「日本では投資に見合うリターンが得られない」という印象を製薬企業に与え、日本での開発・申請を断念させる要因となっているのです。

要因3:国際的に見てハードルの高い臨床試験(治験)

新薬を承認するためには、その国の患者を対象とした臨床試験(治験)が必要です。
しかし、日本の治験環境にはいくつかの課題があります。

  • コストの高さ: 日本の治験は、諸外国と比較してコストが高いと言われています。 治験を依頼する製薬企業の負担が大きく、費用対効果の観点から日本が敬遠されることがあります。
  • スピードの問題: 治験に参加してくれる患者集めに時間がかかるなど、症例の集積スピードが遅いことも課題です。 開発競争が激化する中で、治験の遅れは致命的となります。
  • 複雑な規制とプロセス: 日本独自の規制や手続きの複雑さが、海外企業にとって参入障壁となることがあります。 かつては国際共同治験に参加する前に、日本人での安全性を確認する小規模な試験が原則必要とされていましたが、こうした規制が日本での開発の遅れにつながっていました。

欧州製薬団体連合会(EFPIA)などからは、「このままでは日本がグローバルな治験から除外される可能性がある」との警鐘も鳴らされています。

要因4:新薬開発の主役の変化(バイオベンチャーの台頭)

近年の創薬の世界では、開発の主役が大きく変化しています。

2015年から2021年にアメリカで承認された医薬品の約65%は、小規模なバイオベンチャー企業(新興バイオ医薬品企業:EBP)が開発したという報告があります。

かつては世界中に拠点を持つ巨大製薬企業(メガファーマ)が創薬の中心でしたが、現在は革新的な技術を持つバイオベンチャーが開発を主導し、後に大手企業がその権利を買い取るというモデルが主流になっています。

これらのバイオベンチャーの多くは欧米に拠点を置いており、体力や資金、人材が限られています。 そのため、まずはアメリカやヨーロッパといった巨大市場での承認・販売を優先し、日本を含む複数市場への同時展開は後回しになりがちです。 日本市場に参入するための複雑な手続きやコストが、彼らにとって大きな負担となり、結果としてドラッグ・ロスにつながっています。

要因5:日本企業の国際競争力と開発戦略の変化

日本の製薬企業の動向も、ドラッグ・ロスに影響を与えています。

  • 国際競争力の変化: かつて世界の医薬品売上高ランキングの上位を占めていた日本企業ですが、近年は欧米企業に押され、その存在感が相対的に低下しています。
  • 自前主義からの脱却: 日本企業もまた、自社での研究開発だけでなく、海外のバイオベンチャーが開発した有望な新薬候補を導入する戦略にシフトしています。
  • 開発の遅れ: 海外ベンチャーとの提携がうまくいかなかったり、交渉が遅れたりすると、日本への導入が遅れ、ドラッグ・ラグやドラッグ・ロスにつながる可能性があります。

これらの要因が相互に影響し合い、「日本市場は後回しにしてもよい」「日本での開発はリスクが高い」という判断を国内外の製薬企業に促し、深刻なドラッグ・ロス問題を生み出しているのです。

ドラッグ・ロス解決に向けた日本の対策と今後の展望

深刻化するドラッグ・ロスに対し、国や製薬業界も手をこまねいているわけではありません。
日本の患者さんが一日でも早く革新的な新薬にアクセスできるよう、様々な対策が始まっています。

政府・厚生労働省の取り組み

政府はドラッグ・ロスを重要な政策課題と位置づけ、多角的な対策を進めています。

  • 薬価制度の見直し: 2024年度の薬価制度改革では、革新的な新薬の価値をより適切に評価し、企業の開発意欲を高めるための見直しが行われました。 例えば、世界に先駆けて日本で開発・申請された薬の薬価を高く設定する「先駆け審査指定制度」の加算見直しや、希少疾患・小児用医薬品への配慮などが盛り込まれています。
  • ドラッグ・ロスの実態調査と開発要請: 厚生労働省は、どの薬がドラッグ・ロスになっているかを具体的にリストアップし、その必要性を評価する取り組みを開始しました。 「医療上の必要性が特に高い」と判断された医薬品については、国が製薬企業に対して開発を要請したり、開発企業を公募したりしています。 2025年12月12日には、86品目のうち3品目について「医療上の必要性が高い」と評価し、開発要請・公募を行う方針が示されました。
  • 審査・承認プロセスの迅速化: 「先駆的医薬品指定制度」や「条件付き早期承認制度」などを活用し、有望な新薬をより早く患者さんのもとへ届けるための仕組みを強化しています。

製薬業界・関連団体の取り組み

製薬企業やその業界団体である日本製薬工業協会(製薬協)も、問題解決に向けて積極的に動いています。

  • 政策提言と効果検証: 製薬協は、ドラッグ・ロスの原因分析や、それを解消するための薬価・薬事制度に関する政策提言を積極的に行っています。 また、2024年度の薬価制度改革が企業の開発行動にどのような影響を与えたかを検証し、さらなる改善につなげる活動も進めています。
  • 開発支援の強化: 海外のバイオベンチャーが日本市場に参入する際の障壁を下げるため、日本の薬事制度に関する情報提供や、開発・申請のサポートを行う体制を強化しています。
  • 開発公募への協力: 国からの開発要請や公募に対し、会員企業が応じやすい環境を整えるなど、官民一体となった取り組みを進めています。

日本製薬工業協会の調査によると、2024年度の薬価制度改革を受けて、51の医薬品で治験の前倒しなどの動きが見られたと報告されており、制度改革が一定の効果を上げ始めていることが期待されます。

臨床試験(治験)環境の改善に向けた動き

ドラッグ・ロスの大きな要因である治験の課題についても、改善の動きが加速しています。

  • 規制の見直し: 厚生労働省は、海外で先行して開発された薬について、国際共同治験に参加する際に原則として必要だった日本人での第1相試験を「原則不要」とする通知を発出しました。 これにより、日本が国際共同治験に参加しやすくなり、開発の遅れを防ぐ効果が期待されます。
  • 治験のDX(デジタル・トランスフォーメーション)推進: オンライン診療やウェアラブルデバイスを活用して患者さんの通院負担を減らす「分散型臨床試験(DCT)」の導入が進んでいます。 これにより、治験の効率化、コスト削減、そして患者さんの参加しやすさ向上につながります。
  • 国際共同治験への参加促進: 国やアカデミア、企業が連携し、日本の治験の質とスピードを高め、より多くの国際共同治験を国内に誘致するための基盤整備が進められています。

さらに、治験を経て承認された医薬品を安定的に市場へ供給するためには、製造設備の品質を保証するプロセスも極めて重要です。
こうした医薬品製造の品質管理を専門的に支援する日本バリデーションテクノロジーズ株式会社のような企業の役割も、新薬開発のエコシステム全体を支える上で欠かせません。

治験環境の改善と並行して、製造段階での国際基準を満たした品質保証体制を強化することも、海外企業が日本市場に参入しやすくなる一助となるでしょう。
日本バリデーションテクノロジーズ株式会社をはじめとする専門企業の活躍が、間接的にドラッグ・ロス問題の解決に貢献することが期待されます。

私たちにできること:問題への関心と理解

ドラッグ・ロスの解決は、政府や企業だけの課題ではありません。
私たち国民一人ひとりがこの問題に関心を持ち、正しく理解することが、社会全体の機運を高める上で不可欠です。

  • 問題の認知: まずは、ドラッグ・ロスという問題が存在することを知り、なぜそれが起きるのかを理解することが第一歩です。
  • 声を上げること: 患者団体などを通じて、新薬へのアクセス改善を求める声を社会や行政に届けることも重要です。患者さんの切実な声が、政策を動かす大きな力となります。

これらの取り組みが実を結び、日本の患者さんが世界最高水準の治療をタイムリーに受けられるようになるまでには、まだ時間がかかるかもしれません。
しかし、官民一体となった改革は着実に進んでおり、今後の動向が注目されます。

まとめ:希望ある未来のために、社会全体で取り組むべき課題

「日本だけ新薬が届かない」というドラッグ・ロスの問題は、日本の医療が直面する深刻な課題です。
その背景には、日本の市場魅力の低下、複雑な薬価制度、治験環境の課題、そして世界の創薬トレンドの変化といった、根深く複合的な要因が存在します。

この問題は、治療の選択肢を奪われる患者さんやそのご家族にとって、生命に直結する切実な問題であると同時に、日本の医療水準を維持し、国民全体の健康を守る上でも看過できない国家的課題です。

幸いなことに、近年、この危機的状況に対する認識が広まり、政府、製薬業界、医療現場が一体となって解決に向けた取り組みを加速させています。
薬価制度の見直し、開発要請の仕組み、治験環境のDX化など、具体的な対策が次々と打ち出され、少しずつですが、変化の兆しが見え始めています。

しかし、この問題を根本的に解決するためには、制度改革だけでなく、私たち一人ひとりが関心を持ち続けることが不可欠です。
革新的な医薬品が、それを最も必要としている日本の患者さんのもとへ、一日でも早く届く未来を実現するために。
ドラッグ・ロスは、社会全体で向き合い、解決していくべき重要なテーマなのです。